9月の絵 「 STETECO 」 by Ryu Itadani
ステテコの下にパンツは穿くのか?
「ステテコの下にパンツは穿くものなのか?」よくこの質問を頂戴します。ステテコドットコム(ステテコ研究所)ではこの質問への見解をだすべく、服装史・風俗史・生活史といった分野において日本を代表する研究者の一人であり、「下着の文化史」等 数々の著書を出版されている民族学博士の故・青木英夫先生に2009年に取材をさせていただきました。その際、非常に興味深い貴重なお話を色々と伺いましたので今回、再掲載させていただきます。
以下 青木先生=青木 ステテコ研究所所長=ステテコ
青木
早速ですが、今日はステテコのことで何か相談したいことがあるとのことでしたが
そうなんです。実は『パンツを穿かずにステテコを直接穿くのが正解なのか?それともパンツの上にステテコを穿くのが正解なのか?』ということで、ここしばらく研究所内でもめていまして。。
ステテコ
青木
なるほど。ステテコの着用方法でもめておられるのですか。
もちろん、「個人の自由」と言ってしまえばそれまでの問題ではあるとも思うのですが、それにしても私自身、「本来はこうだ」ということをキッパリ言えないことに不甲斐なさを感じておりまして。。そこで青木先生に風俗史学的な見地からこの問題について「本来はこうだ」ということを出来ればご教示いただきたくて、、
ステテコ
青木
なるほど。そういうことですか。ところで、所長さんは例えば、江戸時代までの銭湯は男女混浴だったということはご存知ですか?
え、そうなんですか!
ステテコ
青木
そうなんです。男女混浴だった為、男子の武士階級は浴衣(ゆかた)、一般階級は風呂フンドシを身につけて、女性は腰巻をつけて風呂に入っていたんです。
なるほど、ゆかたを漢字で「浴衣」と書くのもその名残ですね。
ステテコ
青木
そして江戸末期頃から次第に別々に入るようになってから、何も身に付けずに裸で入浴するようになっていったわけです。このように現代では当たり前のようになっていることにも、そのルーツといいますか、流れがある。そういう意味では所長さんが悩んでおられる問題に関しても、確かに風俗史がお役に立てるかもしれませんね。
ステテコの源流ともいえる1枚の布を紐で結び合わせる形態の股引は室町時代頃からみられます。江戸時代頃までの股引は下着兼アウターという存在。やがて明治時代になり、西洋の文化が日本に入りだしてきてから日本の下着も大きく進化していきます。
ステテコの源流ともいえる1枚の布を紐で結び合わせる形態の股引は室町時代頃からみられます。江戸時代頃までの股引は下着兼アウターという存在。やがて明治時代になり、西洋の文化が日本に入りだしてきてから日本の下着も大きく進化していきます。
ステテコの進化においても洋装の影響は受けているということでしょうか?
ステテコ
青木
その通りです。股引が洋装の影響を受けズボン風に進化したのが“ステテコ”と言えます。
つまり、ステテコは元々日本にあったものが
明治時代に西洋文化と融合して日本でオリジナルに進化を遂げたものと言えるわけですね。
明治時代に西洋文化と融合して日本でオリジナルに進化を遂げたものと言えるわけですね。
ステテコ
青木
そうです。明治15年に井上馨によって鹿鳴館が建てられ洋装文化が積極的に取り入れられた頃、洋装の下着も入ってきたのですが、一般の人にはあまり普及しませんでした。同じように洋装の影響を受け、日本でオリジナルに進化したステテコも当初はあまり普及していませんでいたが、その普及に一役買ったのが落語です。落語家・三遊亭円遊が裾を尻からげにして半モモヒキを見せながら「ステテコ云々」と歌いながら踊る芸が当時人気を博したことで明治時代末期より庶民にもステテコは流行し普及していったと考えられます。
なるほど、ステテコの進化には洋装文化が関わり、その普及には日本独特の文化の落語が関わっているんですね。先生、非常に面白いお話有難うございます。それでは、いよいよ問題の核心についてお尋ねいたしますが、『パンツを穿かずにステテコを直接穿くのが正解なのか?それともパンツの上にステテコを穿くのが正解なのか?』この問題について、ズバリ先生はどちらが正しいと思われますか?
ステテコ
青木
あくまで、「風俗史学的なステテコの流れから」といった観点でお答えさせていただきますと、ステテコも、またその源流である股引も、一般的にはあくまでフンドシやサルマタの上に着用されてきました。だから、やはり、そのフンドシやサルマタが現代ではトランクスやボクサーブリーフといったパンツに代わられていることから考えると、パンツの上にステテコを穿くのが正統派ということになるのではなかろうかと思います。
先生、ありがとうございます!
ステテコ